加賀一向一揆 〜金沢御堂が創建されるまで〜NEW
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加賀一向一揆は長享2年(1488)から天正8年(1580)までおよそ百年間続いた。最初、一揆を指導したのは、蓮如の子息が坊主(住職)となった本泉寺・松岡寺・光教寺の「賀州三カ寺」である。しかし、享禄4年(1531)に加賀一向宗の中で内紛(享禄の錯乱)が起こり、三か寺は追放される。ここまでが加賀一向一揆の前半である。今回は金沢御堂ができるまでの加賀一向一揆の前半について基本的な流れを解説する。
長享2年(1488)、加賀で大規模な反乱が起こり、反守護勢力は高尾城に立て籠もる政親を自害に追い込んだ。これが「長享の一揆」と呼ばれ、加賀一向一揆で最も有名な事件である。蓮如の十男の実悟は『天正三年記』という蓮如の伝記を書き、その中で、長享の一揆を「百姓ノ持タル国ノヤウニ成行」と表現している。当時の人間にとって地元の人間が守護を滅ぼすというような事件は、まるで<百姓が武家を追い出した>ように見えたのだろう。
ここで「百姓ノ持タル国」としてイメージされる加賀一向一揆の体制が成立した。しかし、加賀一向一揆は、@国内の武士、A旧来の一向宗寺院、B白山寺社の勢力も加わっており、けっして百姓が中心ではないのである。
ところが、蓮如の死去によって本願寺の門主が代替わりすると、加賀一向一揆の中で内紛が生じ、結局、享禄4年(1531)、賀州三か寺は加賀を追われた。その15年後の天文15年(1546)、第十世門主の証如は金沢御堂を創建し、加賀国は本願寺によって直轄化されたのである。
「百姓の持ちたる国」のイメージで代表される加賀一向一揆が、実は加賀国内の多様な勢力と本願寺による複雑な構造を持っていたことを理解してほしい。
開講日・体験日 |
講座日/10月25日(水)10時半〜正午 |
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受講料 |
1650円 初めての方は、入会金500円、1年以上受講のない方は、再入会金500円が必要です。ただし1DAY、体験講座、70歳以上の方は入会金が不要です。 |
講師 |
平瀬直樹(日本中世史研究者) |